人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。
多死社会の到来。
これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。
2025年問題。
団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。
厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。
だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。
自宅で死ねない実情。
看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。
終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。
にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。
また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、
日本では8%にすぎない。
人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。
理想と現実のギャップが大きすぎる日本。
他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。
対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。
「死について良く考えるか?」という問いの結果では
他の国に比べて日本が31%と突出しているが
その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。
日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。
そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。
医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに
違和感を感じる人は少なくないはず。
医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。
終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め
最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。
かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり
得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。
その時が来たら
「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。
核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、
そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。
その為に「死」の教育が必要だ。
死は例外なく誰にでも訪れる。
病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても
死ぬ時は死ぬ。
大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか
体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、
それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。
初めから死ぬように作られている分け、
肉体がある分け、消える分け、
自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。
2014年10月22日水曜日
2025年問題
人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。
多死社会の到来。
これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。
2025年問題。
団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。
厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。
だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。
自宅で死ねない実情。
看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。
終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。
にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。
また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、
日本では8%にすぎない。
人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。
理想と現実のギャップが大きすぎる日本。
他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。
対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。
「死について良く考えるか?」という問いの結果では
他の国に比べて日本が31%と突出しているが
その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。
日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。
そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。
医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに
違和感を感じる人は少なくないはず。
医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。
終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め
最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。
かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり
得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。
その時が来たら
「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。
核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、
そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。
その為に「死」の教育が必要だ。
死は例外なく誰にでも訪れる。
病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても
死ぬ時は死ぬ。
大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか
体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、
それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。
初めから死ぬように作られている分け、
肉体がある分け、消える分け、
自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。
*文芸春秋 2014 11月号 を読んで。
多死社会の到来。
これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。
2025年問題。
団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。
厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。
だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。
自宅で死ねない実情。
看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。
終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。
にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。
また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、
日本では8%にすぎない。
人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。
理想と現実のギャップが大きすぎる日本。
他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。
対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。
「死について良く考えるか?」という問いの結果では
他の国に比べて日本が31%と突出しているが
その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。
日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。
そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。
医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに
違和感を感じる人は少なくないはず。
医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。
終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め
最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。
かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり
得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。
その時が来たら
「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。
核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、
そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。
その為に「死」の教育が必要だ。
死は例外なく誰にでも訪れる。
病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても
死ぬ時は死ぬ。
大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか
体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、
それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。
初めから死ぬように作られている分け、
肉体がある分け、消える分け、
自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。
*文芸春秋 2014 11月号 を読んで。
2014年10月9日木曜日
映画ナレーション
厚生労働省でのアンケートでは、自宅で最期を希望する人が過半数を占めている。
がしかし、実情は自宅での死亡率は8人に一人だ。
自宅で死ねない現実。
日本人の死に場所はこの60年あまりで大きく様変わりした。
1950年当初、病院での死亡率は1割足らずだった。
60年前、8割以上が自宅で亡くなっていたということは
それゆえに死が生活の一部にあったということだ。
いつから「死」が生活の中から切り離されてしまったのだろう。
「死」を見つめる機会が無くなって、「生」の意味もわからなくなったような気がする。
命の重さは「死に行く人」に寄り添うことで初めて実感出来ると思う。
死に様をちゃんと見つめる。
「看取り」の場でしか実感できない命の尊さを知るべきだと思う。
私が「看取り」をテーマにした映画を撮ろう思ったのは
自宅で主人を看取った経験を伝えたかったこともあるが、
看取り士・柴田久美子さんとの出会いがきっかけでもある。
柴田さんの書籍の数々、講演会の内容、これまで何十人もの命を抱いて看取って来られた
その看取りの活動内容、生き様、死生観、本人の生い立ち・・・・
それらに心動かされたのだ。
これから日本は後期高齢化社会を迎え、4人の一人は高齢者となる。
47万人の死に場所が亡くなると言われる2025年問題。
病院は病を治す所であって、死ぬ所ではないとからと受け入れて貰えない。
介護施設は職員もベッド数も足りないから入所困難。
自宅はつきっきりで面倒を見れる人がいない。
本来は住み慣れた一番落ち着く場所で、気心知れた人たちに囲まれ
痛みや苦しみ、不安や恐怖のない、安らかで穏やかな最期を迎えられるのが自然だろう。
無機質な病院は只でさえ違和感がある。
管だらけで薬漬で、自由が制限された最期が望ましいとは言えない。
看取り士・柴田久美子さんは自宅で平穏死を叶える為の取り組みを行っている。
2025年問題の47万人という数字を帰ることはできなくても、47万人の死生観を確立することは出来るのではないか。
何故、人は死ぬように定められているのか
死ぬ時、身体機能が止まった後、その人のそれまでの感情、心、思考はどうなるのか、
魂があるのなら、それは死後どこへ行くのか、
そういった疑問を抱きながら、それを曖昧にしながらも
日々、確実に終わりの日に近づきながら生きていく。
例外なく訪れる「死」を “縁起でもない”と遠ざけていても、
遅かれ早かれ、この肉体は手放さなければならなくなる。
死を恐れるということは、人生そのものを恐れるということではなかろうか。
看取る側、看取られる側、
両者にとって「看取り」の場面を考えることは決してマイナスではないと思う。
この映画が「死」と「生」を考える良き機会となりますよう。
2014年10月6日月曜日
続く命
私のドキュメンタリームービー
「いきたひ」~家族で看取る~の主題歌「続く命」は
昨年の大晦日に突然降ってきた。
賛美歌のような「「祈り」の曲が作りたいと思い、
誘われるようにピアノに向かって鍵盤の手を置くと
殆ど勝手に指が動き、言葉も誰かが語りかけてくるように聞こえてきた。
私は元々、楽譜の読み書きが出来ないまま曲を作っているので
とりあえず、紙に言葉だけ書き記した。
そうやって30分くらいすると、一つの曲はが完成した。
あっと言う間の出来事で、正直驚いた。
私が作曲したようで、作らされたような感覚。
ふと思った。
この歌を映画の主題歌にしようと。
この歌は、8月24日に東京の四谷区民ホールで開催された
「第1回日本の看取りを考える全国大会」の場で初披露させて頂いた。
500人満席の会場ですすりなく声が聞こえ、手応えを感じた。
やはり私の歌ではないと。
会場に持ち込んだCDは完売。
沢山の方々から握手を求められて、有り難く思った。
このプロモーションビデオはたった一日で収録した。
しかも前日、急遽撮影が決まり
出演して下さる方や、撮影場所を提供して下さる方を一日で集めた。
この映像と私の声と歌詞と旋律が完全にひとつとなって、素晴しい作品が完成した。
サントリーウーロン茶のCMで「蘇州夜曲」を歌った李広宏さんが
この「続く命」を聞いて感動して下さり、機会あったら歌わせてほしいとご連絡くださった。
*長谷川裕子監督「続く命」で検索頂けたら、YouTubeで聞くことが出来ます。
「いきたひ」~家族で看取る~の主題歌「続く命」は
昨年の大晦日に突然降ってきた。
賛美歌のような「「祈り」の曲が作りたいと思い、
誘われるようにピアノに向かって鍵盤の手を置くと
殆ど勝手に指が動き、言葉も誰かが語りかけてくるように聞こえてきた。
私は元々、楽譜の読み書きが出来ないまま曲を作っているので
とりあえず、紙に言葉だけ書き記した。
そうやって30分くらいすると、一つの曲はが完成した。
あっと言う間の出来事で、正直驚いた。
私が作曲したようで、作らされたような感覚。
ふと思った。
この歌を映画の主題歌にしようと。
この歌は、8月24日に東京の四谷区民ホールで開催された
「第1回日本の看取りを考える全国大会」の場で初披露させて頂いた。
500人満席の会場ですすりなく声が聞こえ、手応えを感じた。
やはり私の歌ではないと。
会場に持ち込んだCDは完売。
沢山の方々から握手を求められて、有り難く思った。
このプロモーションビデオはたった一日で収録した。
しかも前日、急遽撮影が決まり
出演して下さる方や、撮影場所を提供して下さる方を一日で集めた。
この映像と私の声と歌詞と旋律が完全にひとつとなって、素晴しい作品が完成した。
サントリーウーロン茶のCMで「蘇州夜曲」を歌った李広宏さんが
この「続く命」を聞いて感動して下さり、機会あったら歌わせてほしいとご連絡くださった。
*長谷川裕子監督「続く命」で検索頂けたら、YouTubeで聞くことが出来ます。
映画監督として
この造語に何とフリガナを付けたいか?
自分の人生観で見た時、これを何と読みたいか?
これまで数え切れない人に質問してきた。
生死、人生、一生、輪廻、転生、今、光、あうん、旅、ライフ、生きる、墓、堺、、、、
人それぞれに、違っていいわけだが
私はこれに「いきたひ」とフリガナをふっている。
「生」という漢字の下にカタカナで「タ」と「ヒ」
生タヒ「いきたひ」
フリガナは「いきたひ」で「いきたい」と読む。
生と死は切り離すことが出来ない。
生まれたということは、その瞬間から死に向かっているということ。
「生」の5角目と「死」の1角目は繋がっている。
何の為に生まれてきたか は 何の為に死ぬのかを知らずに
答えは見出せまい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
~いきたい~
生きたい 自分らしく生きたい
行きたい 成長して行きたい
活きたい 自分を活かしたい
逝きたい 最期まで尊厳を持って逝きたい
往きたい 輪廻の世界を往復したい
生きた日 生きた日々に蓄えた生命の灯火
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生まれてくる為には 数え切れない人の命が必要だったし、誰一人欠けても自分は生まれてこれなかった。
先に死んだ方々があっての自分
そして我々は生きていく為に、日々命を頂戴している。
水と塩以外は皆、命があるという。
「死」の上に成り立つ「生」
我々の「生」を支えているのは「死」とも言えないか。
日蓮上人が言った。
「されば先ずは臨終のことを習うて後に、他事を学ぶべし」
いくら勉強して知識をつけても、臨終の意味することを知らずして何の意味もないと。
どういう終わり方をしたいか、人生の完結シーンを描くことは
「今」を生きることに繋がるはずだ。
先ずは予告編をご覧頂けたら幸いです。
長谷川裕子監督 「いきたひ」で検索頂けたら、YouTubeで予告編をご覧いただけます。
自分の人生観で見た時、これを何と読みたいか?
これまで数え切れない人に質問してきた。
生死、人生、一生、輪廻、転生、今、光、あうん、旅、ライフ、生きる、墓、堺、、、、
人それぞれに、違っていいわけだが
私はこれに「いきたひ」とフリガナをふっている。
「生」という漢字の下にカタカナで「タ」と「ヒ」
生タヒ「いきたひ」
フリガナは「いきたひ」で「いきたい」と読む。
生と死は切り離すことが出来ない。
生まれたということは、その瞬間から死に向かっているということ。
「生」の5角目と「死」の1角目は繋がっている。
何の為に生まれてきたか は 何の為に死ぬのかを知らずに
答えは見出せまい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
~いきたい~
生きたい 自分らしく生きたい
行きたい 成長して行きたい
活きたい 自分を活かしたい
逝きたい 最期まで尊厳を持って逝きたい
往きたい 輪廻の世界を往復したい
生きた日 生きた日々に蓄えた生命の灯火
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生まれてくる為には 数え切れない人の命が必要だったし、誰一人欠けても自分は生まれてこれなかった。
先に死んだ方々があっての自分
そして我々は生きていく為に、日々命を頂戴している。
水と塩以外は皆、命があるという。
「死」の上に成り立つ「生」
我々の「生」を支えているのは「死」とも言えないか。
日蓮上人が言った。
「されば先ずは臨終のことを習うて後に、他事を学ぶべし」
いくら勉強して知識をつけても、臨終の意味することを知らずして何の意味もないと。
どういう終わり方をしたいか、人生の完結シーンを描くことは
「今」を生きることに繋がるはずだ。
先ずは予告編をご覧頂けたら幸いです。
長谷川裕子監督 「いきたひ」で検索頂けたら、YouTubeで予告編をご覧いただけます。
2014年4月2日水曜日
来宮神社と箱根神社
熱海在住の友人に会いに行く途中、旅の連れが急に
箱根神社に行ってみたいと言うので向かった。
途中で見えた富士山の美しさに圧倒された。
芦ノ湖に隣接する箱根神社は歴史を感じさせた。
そこで九頭龍様にも参拝すると、何やら龍神様の気配がした。
箱根から熱海に向かう道で素晴しい景色に出会った。
思わず車を止めてカメラに収めた。
神秘的な芦ノ湖、雪化粧の富士山、真っ青な空、柔らかな日差し、爽やかな風、
澄んだ空気・・・・
この国はまだまだ美しい!!
熱海に到着して、地元の友人が案内してくれた「来宮神社」は「龍の頭」と言われており
図らずも「龍の尻尾」と言われる「箱根神社」の二社詣となった。
私は約7ヶ月ぶりの来宮神社だったが、懐かしさがこみ上げてきて
思わず「ただいま」と声にしてしまった。
地元の友人が「おかえり」というので、本当に受け入れてもらっているような気がした
2千年大楠にも会えて、恒例の楠廻りをした。
この木の周りを一周すると寿命が一年延びるそうだ。
また癒しの力があるとかで、実際に幹に触れていると腰痛が消えた。
この大楠は龍化していて、本当に龍に見えてしまった。
熱海を見下ろす絶景の、温泉付きのマンションに住んでいる友人が案内してくれた場所。
そこからは大島が見えた。
空と海と松と桜と大島。その美しいこと、スケールが大きいこと、
人生は短い、やりたくないことを やっている暇なんか無い。
今できることを、精一杯するんだ!!
過去にとらわれず、未来をあれこれ心配せず、今、与えられたこの時をしっかり味わおう!
そんな気になった。
箱根神社に行ってみたいと言うので向かった。
途中で見えた富士山の美しさに圧倒された。
芦ノ湖に隣接する箱根神社は歴史を感じさせた。
そこで九頭龍様にも参拝すると、何やら龍神様の気配がした。
箱根から熱海に向かう道で素晴しい景色に出会った。
思わず車を止めてカメラに収めた。
神秘的な芦ノ湖、雪化粧の富士山、真っ青な空、柔らかな日差し、爽やかな風、
澄んだ空気・・・・
この国はまだまだ美しい!!
図らずも「龍の尻尾」と言われる「箱根神社」の二社詣となった。
私は約7ヶ月ぶりの来宮神社だったが、懐かしさがこみ上げてきて
思わず「ただいま」と声にしてしまった。
地元の友人が「おかえり」というので、本当に受け入れてもらっているような気がした
2千年大楠にも会えて、恒例の楠廻りをした。
また癒しの力があるとかで、実際に幹に触れていると腰痛が消えた。
この大楠は龍化していて、本当に龍に見えてしまった。
熱海を見下ろす絶景の、温泉付きのマンションに住んでいる友人が案内してくれた場所。
そこからは大島が見えた。
空と海と松と桜と大島。その美しいこと、スケールが大きいこと、
人生は短い、やりたくないことを やっている暇なんか無い。
今できることを、精一杯するんだ!!
過去にとらわれず、未来をあれこれ心配せず、今、与えられたこの時をしっかり味わおう!
そんな気になった。
桜
目黒川に延々と続く桜並木の美しさに圧倒された。
この花を「国花」と選んだ日本人の精神性と美学を誇りに思う。
大雪の冬を超えたからこそ、一際輝いて見える。
厳しい冬を超えたものにしか出せない輝きと威厳が有るように思う
冬の寒さをきちんと通過した方が、花は美しいという。
今年2月の記録的な大雪も、この花に繋がっていたのだ!
そう受け止めると、桜が更に美しく思える。
この花を「国花」と選んだ日本人の精神性と美学を誇りに思う。
大雪の冬を超えたからこそ、一際輝いて見える。
厳しい冬を超えたものにしか出せない輝きと威厳が有るように思う
冬の寒さをきちんと通過した方が、花は美しいという。
今年2月の記録的な大雪も、この花に繋がっていたのだ!
そう受け止めると、桜が更に美しく思える。
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