2013年2月20日水曜日

第5回 高麗鍋コンテスト

2月3日 第5回 高麗鍋コンテストが盛大に開催され、

会場となった高麗神社の高麗家住宅前には約3000人の来場者がありました

15チームが出場、用意された約500食は開始から約1時間で完売。

今年は審査員として駐日韓国大使館総領事のキムジンスク夫妻も加わり

高麗鍋コンテストが広く認知されるようになってきたことを実感しました。

毎年司会を務めさせて頂いてますが、私なりに思い入れがあります。

第1回目は主人がまだ元気でした。

第2回目の高麗鍋コンテストは主人が亡くなって四十九日も立たないうちに

司会を務めました。
喪失感を乗り越え、亡き主人の供養として司会を引き受けました。

高麗鍋の発案者の一人として、主人はその啓蒙に力を入れていましたから。

日高市のまちおこしに貢献したいと、

高麗人参の研究家としての実績を還元しようとしておりました。

何の関わりもなかったこの土地に引っ越して来ましたが

暮らしてみて初めて分かりました。

この土地とこの土地を開拓していった渡来人たちに呼ばれたのだと。

高麗人参博士が高句麗と縁の深い土地に移り住むようになったのは

決して偶然ではないと感じました。
更にはっきりしたのは

我々が越してきてから半年経った頃、建郡記念日が5月16日であることが判明。

その日を祝うために、高麗郡地場産チャリティーバザールが開催されることになり、

越してきて間もない立場でありながら、第1回目から主催側として関わることになりました。

こうして結成された高麗郷’Sは2016年の高麗郡建郡1300年祭にむけて

中心的に動いてきました。

これをする為に、この地を盛り上げる為に、呼ばれて来たのだと夫婦揃って感じました。

薬学博士としての経験を、地元に活かすきっかけを得て

研究一筋だった主人は、地域の人達と関わることでどんどん変わって行きました。

自分の研究だけでなく、日高市をどう活かすかがテーマになりました。

連れ添ってきた私には劇的な変化に見えました。

当時の大澤市長にも夫婦で面会に行きました。

1300年を迎えるその時に、この地を訪れる人達に振舞ってあげられる料理、

この土地ならではの、この土地の歴史と文化を感じさせる一品、

味はもちろん、健康的で、食べた人の中で生き続ける、忘れられない逸品

そんなことを真剣に考えていました。

高麗鍋の条件
1、キムチ味であること
2、地場産の食材を使用
3、高麗人参を入れる

3が無かったらタダのキムチ鍋、そこに高麗人参を入れることで区別化を図る。

年々、市内外に知れ渡って行くのが嬉しかったです。

それまで主人は研究家として、私は全く違う舞台方面で

夫婦でありながら別々の分野で自分を活かす事にエネルギーを費やしてきましたが

高麗鍋が我々夫婦を同じ方向に向かわせてくれました。

関わる人達も、それまでは互の専門分野の人間関係が別々にありましたが、

高麗鍋を通して出逢う方々は、夫婦共通の人脈となりました。

書ききれませんが、高麗鍋は私達夫婦のもう一人の子供のような気もしています。

我が家では2週間に1回は高麗鍋を作っています。

子供たちは「お父さんの高麗鍋」と呼んでいます。

市内の学校給食に高麗鍋が出る日は、学校に出向いて

児童達に高麗鍋の説明をしています。

高麗鍋コンテストの司会でステージに立つと、

会場のどこかに主人がいるような気がしています。

昨年の埼玉県B級グルメコンテストで優勝したのが「高麗鍋」です。

ついにここまで広がって来ました!

今回の高麗鍋コンテストの様子はNHKの朝のニュース番組でも紹介され

全国に配信されました。

  *地元の文化新聞に掲載

「高麗鍋に使う高麗人参は日高産であるべき!」と

市内での栽培に掛けていた主人の志を受け継いで、

一生懸命に育ててくださっている方々がいらっしゃいます。

その成長過程を伺う度に、有り難く思います。

収穫までに6年の歳月が必要な高麗人参ですが、

高麗郡建郡1300年祭に献上できるようにと植えて、

主人はその年の暮に亡くなりました。

主人の生きた証を残そうと、日高市でキムチを作って25年のサンドラキムチ・加藤社長は

主人が亡き後に認可されたナノ型乳酸菌を入れたキムチを商品化

パッケージにも主人の名前を入れて下さいました。

主人が人生の終わりに選んだ土地が、今 

こうして温かく主人を受け入れてくれていると思うと、

主人の分も幸せだなぁと思います。

主人が残していってくれた「高麗鍋」という種を、多くの方々の支えを頂きながら

これからも大切に育てていきます。