2011年12月14日水曜日

No10・命日

2年前の今日を思い出していました。

2年前の今日、主人は47歳で息を引き取りました。

自宅で見送りました。

あの日から、もう2年。

私達夫婦はお互いを名前で呼んだ事が有りませんでしたが、

亡くなる10日ほど前から、主人は私を「ひろこさん」と呼んでくれました。

それまでは「おかあさん」と呼ばれていました。

余命半年と宣告を受けてから、3か月後に亡くなりました。

あの3か月があるから、私は主人と本当の夫婦になれた様な気がします。

子供4人の世話に追われ、二人きりになってもほとんど会話の無かった私達ですが

余命を宣告されてからは、とにかく話をしました。

“お話、しよう!”と主人が声を掛けて来ては、手を休め、向き合って会話をしました。

肩を並べてよく散歩にも行きました。山も登りました。

最初のオペで、左顔面神経を切り取ってしまいましたので

左目は開いたまま、唇も左側口角が下がったままの、かなりいびつな顔になっていました。

“わしは、あなたの様に、テレビに顔を出している分けじゃないからね顔はどうなってもいいんだ・・・まるで、美女と野獣だな”

と話してはいましたが、鏡に映る自分の顔を見てやはり辛かったと思います。

外を歩いていると、すれ違う人が、驚いた表情で主人を見るんです。そして

次の瞬間、見てはいけない物を見てしまったかのように視線をそらす。

そんなことが多々有りました。

なので、主人は私に“並んで歩く時はいつも綺麗にしていてくれ”と言いました。

化粧、身なりをきちんとして、人の視線が私の方に向けられるように

自分の方を見ないように、振舞ってくれと・・・

私も主人の横に立つ時は、主人の左側を覆い隠す様に必ず左側に立ちました。

大きく目を開けて、ニコニコしながら、悲しみの欠片も感じさせないような笑顔で。

実際に悲しくはなかったんです。

主人は必ず生還すると確信してましたから。

この状況も、いつか誇らしく語れる日が来ると信じていました。

長女が生まれてからは、手をつなぐことも無くなりましたが、

最後の3か月間は、いつも手を繋いで歩きました。

その手も、末期の症状で、次第に水風船のようにむくんで、はれ上がり

触れる事も出来なくなっていく分けですが・・・

何もかも、キラキラ輝いていました。

私は決して良き妻ではありませんでしたが、最後は妻として出来る事を全部やったつもりです。

4人の子供を家に置いて、私は病院で寝泊まりしながら付き添いました。

自分でもいつ食事をしたか、いつ寝たのか、わけがわからなくなり、

主人の前では普通にしていましたが

私は日に日に痩せてしまい、病院で何度か意識を失い、倒れてしまったりして・・・

一度だけ、主人の前で泣いてしまった事があります。

主人の寝顔を見ながら、ずっと一緒に生きて行きたいと心の中で叫んでいました。

目を覚ました主人に“泣いているの?”と聞かれ、

“置いて行かないで。私を一人にしないで・・・”と泣き崩れてしまったんです。

主人は私の頭をなでながら、“心配すんな”と言いました。

そして、“わしはこんなに心が平安なのに、あなたが心乱してどうすんの?”と

驚かれたんです。

最後の最後まで強い人でした。

人は生まれてくる時、寿命を決めて人生をスタートさせるんだそうです。

人それぞれに決められた寿命があるのなら、主人もその決められた寿命を全うしただけの事。

決して途中で、ぷつんと終わってしまったんじゃなくて

きちんと終えただけの事。

この世でのお役目を果たして、無事に卒業できたんだ!

そう思うと、医師や病院側に対する不満も清算出来ます。

医師が、住み慣れた家で家族と共に最期を迎えられるようにと

退院させて下さったのが、救いです。

本当に見事な幕引きでした。

きっとそれも主人自身のシナリオだったのではないかと思います。

2年前の今日、明け方、主人が“裕子さん!”と呼びました。

隣でうたた寝していた私が、主人の顔を覗きこむと主人は言いました。

“かなり汗をかいたんだが、体内の水分が減少すると、脳の塩分が不足しないかな?”と。

主人は自分の病状について、ノートに記録を残しており

薬学の博士として、客観的に自分の体を観察していました。

最期の最後まで研究家でした。

結局、それが主人の最後の言葉となりました。

その後、眠る様にして息を引き取りました。

しかも子供達が、“行って来ます”と言って玄関を出て行くのを見届けてからの事です。

高校受験をまじかに控えていた長女が、学校に出かける前でしたので、

彼女が気丈にも、あれこれと気を利かせて動いてくれました。

主人の遺体に泣き崩れる私の背中を、黙って摩ってくれました。

学校向かった子供達が、校門前で主人の死を告げられて戻って来ました。

8歳、11歳、12歳、15歳の残された子供達を前に

私は母として逞しく、凛として、葬儀の準備をこなし始めました。

彼らもショックで、悲しかったはずですが、

私が忙しく動き回る様子を見ていておとなしくしていてくれました。

主人の訃報を聞きつけた私の体操教室の生徒さん達が、

何も言わずとも手伝いに駆けつけて下さり、

本当に助かりました。

近所には、事情は伝えていなかったので、訃報を受け、たくさんの方々が驚いて飛んで来ました。

中には、裸足で走って来た方もいらっしゃいました。

“どうして何も言ってくれなかったのよぉ~!”

“いつから具合が悪かったのぉ?”

“何にも知らなかったぁ、気付いてあげられなくて悔しい、ごねんね、ごめんね”

“一人で抱え込んでたなんてぇ、助けてあげるチャンスさえくれなかったなんてぇ”とか

悲しみの中にあっても、そんな皆さんの迅速な対応が嬉しかったです。

2年前の今頃は、葬儀にむけて色々と準備をしていました。

本当に忙しく、頭をフル回転しながら同時進行でいくつもの雑務をこなしてました。

どこにそんな力が残っていたのか、自分でも不思議なくらいです。

喪主としてこの時期をしっかり乗り越えなければならないと気を張っていましたが

そのままずうっと走り続けてきた感じです。

でも、あの日から、ちょうど2年が過ぎ、今、少し心が緩んだような・・・・

主人が学生時代過ごした京都に、一人で向かう事が出来るようになりましたし。

このブログを書いている途中、サンドラキムチの加藤社長が電話を下さいました。

“今日、命日だね”と。

人前では泣いた事が無い私でしたが、加藤社長の声を聞いて

思わず受話器を持ったまま泣いてしまいました。

言葉にならないくらい、泣きました。

パンパンに張った水風船に針が刺さって、中身が勢いよく飛び出たような感覚。

強い私を演じてきたのは確かです。

でも、演じた強さではなく、本当に強くなれたと思います。

人前に気持ちをさらけ出せるようになりましたから。

今日はこれから介護施設で、演奏します。

主人の倍近く生きていらっしゃる高齢の方々の前で歌います。

最近、長生きしてほしいと思わないんです。

一日一日をめいっぱい楽しんで貰いたい。

いつ終わってもいいように、人生を悔いなく、喜んで過ごして頂きたい。

大笑いして最期を迎えられるように・・・

人は必ず死ぬんだから、楽しんだ者勝ちですよ

2年前はこうして主人の命日についてブログを書いているなんて想像もしていませんでしたが

考えてみれば幸せな事だと思います。

子供達が元気で、この2年間、事故や怪我もなく、

主人が残した会社も、従業員の皆さんのお陰で閉鎖せずに済み、

暮らしていける家もあり、

何より私が健康である事、

私を必要として下さる方々がいらっしゃる事、

つくづく有難い事です。

“お父さん、そっちに引っ越して2年になるけど、どう?

まだまだ、そちらには行けそうもないけど、また語り明かしましょうね!”