2014年10月22日水曜日

マザーテレサは言った。
「たとえ、人生の99%が不幸であったとしても、
最後の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる」と。

そんなマザーテレサの言葉をこの国で実現させようと
「抱きしめて看取る」実践して来たひとりの女性がいる。

看取り士・柴田久美子さん。
最後の1%を満ち足りた瞬間にする為に
これまで何十人もの命を、その腕に抱いて看取って来られた。

臨終の時、人生のクライマックス、
そこでいったい何が起きているのか
死に行く人を見つめ続けて来た柴田さんは言う。

その人がそれまでの人生で蓄えて来た「生命のエネルギー」がバトンタッチされる瞬間。

たとえ瞳孔が開き、心拍停止の状態にあっても 
その体を抱きしめることで、未だ残る確かな温りを、自分の手に移しながら
大きなエネルギーをいただくのだと。

ちゃんと看取ることが出来ると、旅立つ人との間に信頼関係が結ばれ、
それは肉体を離れても尚つ、消えることなく
むしろ、より深い絆となって、残された者に勇気や希望、安心感を与えてくれる。

見取りで本当に救われるのは、 看取った本人であろう。

ドキュメンタリームービー「いきたひ」~主題歌・「続く命」~

続く命                   

                      作詞・作曲:長谷川裕子

1 旅立つその日が来た。
  
 抱いて送って、この命

 生ききって残していく。明日の為に受け取って

 遠い約束果たし終えて、今いざ逝かん。

 続く命

2 別れは始まりだと 

 笑顔で送ろう、その命

 ありがとう、心こめて何度も捧ぐ 逝く人に

 体ほどけて仏になれ この手に移さん

 続く命

*愛した記憶携えて、今かしこに帰らん

 続く命

====================================

2013年の大晦日、賛美歌のような祈りの歌を作ってみたいと誘われるようにピアノに向かった。

鍵盤に手を置いたその瞬間から、一気に指が動き、同時に言葉も降りてきて

あっという間に、曲が出来た。

歌詞の内容から、これは映画の主題歌になると思った。

8月24日、四谷区民ホール500名ほぼ満席。

「第1回 日本の看取りを考える全国大会」で全国から参加下さった方々の前で

映画の予告編を上映した後、この歌を歌った。

監督として紹介され、舞台で挨拶をさせて頂いた。

「続く命」のプロモーションビデオには有名な俳優が出演しているわけではない。

私の周りで、日々を精一杯生きている名も無き人達に出演して頂いた。

このPVの監督さんのお陰で素晴しい作品に仕上がった。

*長谷川裕子監督「続く命」で検索

死の意味

「死」の意味を理解できた時

我々を初めから死ぬように作られた創造主の計らいを感じる。

例えば枯葉が次の年の養土に変わるように、

冬が過ぎて春が来るように、

沈んだ太陽がまた昇るように、

欠けては満ちる月のように

日々細胞が生まれ変わるように、

毎朝、目が覚めるように、

散った桜が毎年蘇るように

日々の糧として頂戴した生物たちの命が

私達の中で復活するように

生まれる命、終わる命、続く命

これまでも、これからも、いつまでも。

私達はこうやって「生と死」の繰り返しの中で暮らして来た。

私達自身の魂もまた

「生と死」の繰り返しの中で磨かれて来たのだと、考えられないだろうか?

死ぬ意味が分からないから、生きる意味が見いだせない。

死んだ後、何処に行くのか分からないから、「死」を恐れる。

行き先が分からないから不安になるのは当たり前。

死は万民に訪れる。

そして、人は生まれる前に必ず母親の「胎内」にいた。

誰もが「産道」を通って地上にやって来る。

生き物の最大の平等 「胎内」と「死」

私はこの普遍性に真理を感じた。

命あるものは、死んで胎内に帰るのだと思う。

「胎内」というと母親の子宮を思い浮かべるかもしれないが、

そこが宇宙と繋がっていると考えるとどうだろう。

胎内をイメージした時、そこにはどんな世界だろう?

まだ誰とも出会っていない、人間関係のわずらしさもなく、

生きて行く為の苦労も知らず、

安心、安全、暖かく、信頼に満ちて、居心地の良い空間ではなかろうか?

私達は死んで、またそこに帰るのだとしたら

「死」は恐ろしいものではなくなるだろう

主人の告別式で喪主を勤めながら、何度も「生前」という言葉を繰り返した。

「主人が生前お世話になりました」と。

亡くなったのだから「亡前」とか「死ぬ前」と表現してもおかしくはないだろうに

わざわざ、「生まれる前」=「生前」という言い方をするのは何故か?

日本人は知ってか知らずか、無意識に死ぬということは、生まれるということなんだと

語ってきたのだ。

また、死亡した日を「命日」という。

極めつけではあるが、主人の告別式当日、主人本人から弔電が届いた。

ある信頼する女性の手を借りて自動書記という形で、天国からメッセージを届けてくれたのだ。

「裕子さん、今日は私の再誕生の日です。」という言葉から始まって

「私の魂を生み直してくれて、どうもありがとう。私は幸せです」で結ばれていた。

死ぬということは、生まれるということ。

主人が私の胎内に宿っている感覚がある。

思い込みでも、そう信じた方が生きやすくなる。

いつも共にあると信じているからこそ、強くなれる。

そう信じることで、勇気や希望、安心感、が与えられる。

死にゆく人に「大丈夫ですよ」

「元いた場所に帰るだけですよ」

そう言って、手を握り、肌に触れ、呼吸を揃え、寄り添ってあげられたら

看取る側も、看取られる側も、決して不幸せではないだろう。

映画ナレーション

「死」を恐れるということは「人生そのもの」を恐れるということではなかろうか?

例外なく訪れる「死」を “縁起でもない”と言って遠ざけていても

我々は日に日に「終わりの日」に近づいて行くのだから。

定められた「死」を恐れながら生きて行くか

あるいは、楽しみにしながら生きて行くか

「死」をどう捉えるかで生き様が違ってくるだろう。

如何に生きるべきかは、如何に死すべきかを定めて後に見えて来るはず。

人は終わりがあることを知っているからこそ、やり遂げたいことがある。

裸で生まれ、裸で帰ることを知っているからこそ、置いて行きたいものがある。

いずれ手放す肉体だが、与えられたこの肉体を使って

自分にしかできないことをする為にあるのなら

それを成し遂げたいと願うのが本能だろう。

人の死因は「寿命」だと思う。

病気や、事故、災害、、、、、死に方は色々あっても、

生まれた時点で死ぬ日は決まっているのだと。

終わる日が来れば終わる。

逆に言えば、決められた日でなければ、死なない。

自殺を図っても、その日でなければ未遂で終わる。

死にたくなくても、その日が来たら、死ぬ。

47歳で亡くなった主人を周りは「若すぎた」とか「勿体無い」とか「無念だ」とか

言って哀れんで下さったが、

私には、決められたその日に悔いなく終えられるように精一杯生き切ったのだと思える。

決して途中でプツンと終わってしまったのではなく、主体的に終えたのだと。

人生は長さではない。

決められた地上での滞在期間に何を刻んだか。

私の心に、4人の子供達の中に、大切な人達の中に

目には見えない財産を沢山残して行ってくれた。

主人がもし元気に生きていたら、主人の有り難さはわからなかった。

主人がもし余命宣告されなかったら、生きることの意味を真剣に考えなかったと思う。

主人が亡くならなかったら、死後の世界を考えなかっただろう。

闘病生活を支える側の思い、

葬式の喪主の立場、

墓を建てる遺族の思い、

伴侶を失う悲しみも、寂しさも、不安も、心細さも、

主人を亡くしたから通過してきた。

それで、私自身がどれだけ成長できたことか、

どれだけ人の思いやりを有り難く思ったことか、

意味のないことなど、起こりはしないのだと、心から思える。

主人の死を、こうやってプラスに受け止めることで

主人は私の中で蘇ることができるのだ。

「死」を恐れていた頃の私はもういない。

人生をかけて、目には見えない財産を蓄えて行こうと思う。

それらを「生命のエネルギー」に変えて、残される人たちに全て受け渡せると思うと

少しでも沢山残していきたい。

願わないことが続いた時こそ「今が貯めどき!」と思える。

試練はあって結構。乗り越えたらそれはポイントとして加算される。

そんな風に捉えると、人生そのものが「誰かの為」になる。

自分以外の人の為に全財産を差し出すことは難しいけれど

死ぬ時は、この肉体すら置いて行くのだ。

全部、受け渡せるのだ!

感動的、人生の完結シーンを思い描きながらワクワク生きるのも悪くない。

映画エピローグ

人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

多死社会の到来。

これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。

2025年問題。

団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。

厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。

だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。

自宅で死ねない実情。

看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。

終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。

にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。

また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、

日本では8%にすぎない。

人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。

理想と現実のギャップが大きすぎる日本。

他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。

対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。

「死について良く考えるか?」という問いの結果では

他の国に比べて日本が31%と突出しているが

その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。

日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。

そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。

医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに

違和感を感じる人は少なくないはず。

医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。

終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め

最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。

かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり

得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。

その時が来たら

「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。

核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、

そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。

その為に「死」の教育が必要だ。

死は例外なく誰にでも訪れる。

病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても

死ぬ時は死ぬ。

大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか

体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、

それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。
いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。

初めから死ぬように作られている分け、

肉体がある分け、消える分け、

自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。




2025年問題

人口構成の高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

多死社会の到来。

これから「死」は至る所で起こる身近な出来事となる。

2025年問題。

団塊世代の高齢化で47万人の死に場所がなくなると言われている。

厚生労働省の意識調査では、最期を自宅で迎えたいという回答率70%以上。

だが実際の死亡場所は自宅以外が85%に上る。

自宅で死ねない実情。

看取りに関する世界的調査(ICL)の結果で、日本の残念な現実が浮き彫りになる。

終末期「本人の主導であるべき」」と答えたのは76%。

にも関わらず、「現実にもそうである」と答えたのはわずか14%。

また世界では3割前後の人が自宅での見取りが出来ると考えているが、

日本では8%にすぎない。

人生の最期の場面で、本人の希望が汲まれていないのが日本の看取りの実態なのだ。

理想と現実のギャップが大きすぎる日本。

他の国は本人の「QOL」や「尊厳保持」を重視している。

対して日本では 「家族の意向」や「生存時間」を重視している。

「死について良く考えるか?」という問いの結果では

他の国に比べて日本が31%と突出しているが

その中身は主に自分が死んだ後の遺産相続等で、自分がどう死を迎えるかということではないのだ。

日頃から、終末期にどうしたいかを話し合ったことがなければ、本人の意思はわからない。

そうなった時、家族は医師に判断を仰ぐしかない。

医師に依存したまま、本人の尊厳を軽視し、むやみな延命治療で生存時間を延ばすことに

違和感を感じる人は少なくないはず。

医者が「生命支持によかれ」と思って施す医療技術が、患者にとって必ずしも良いとは限らない。

終末期は治すことよりも、生活の質(QOL)を高め

最期まで自分らしい生き方を自分で選択出来るような医療であるべきではないだろうか。

かつては多かった自宅死が減る中で、「死」を実感しにくくなり

得体の知れない、縁起でもないものになってしまった。

その時が来たら

「誰かが何とかしてくれるだろう」という期待も、持てない時代に入っている。

核家族化がこれほど進み、単身で死を迎えるのが当然になって行く時代なのだから、

そろそろ自分の看取りについて、しっかり向き合わなくてはならない。

その為に「死」の教育が必要だ。

死は例外なく誰にでも訪れる。

病院に入院していても、介護施設で暮らしていても、自宅で一人で寝ていても

死ぬ時は死ぬ。

大事なのは「死」をどのように理解し、そう受け取るか

体の状態以上に、心の状態をどう保つか、最期に何を望むか、

それを語り、伝え、共有し合う、命のコミュ二ケーションが大切だ。

いつかは朽ちて行く体に執着して、大事なものを見落とさないように。

初めから死ぬように作られている分け、

肉体がある分け、消える分け、

自分の「死生観」をしっかり持って生きることが、2025年問題を乗り越える一つの方法かも知れない。


*文芸春秋 2014 11月号 を読んで。

2014年10月9日木曜日

映画ナレーション

高齢化で、年間120万人以上が亡くなるようになった日本。

厚生労働省でのアンケートでは、自宅で最期を希望する人が過半数を占めている。

がしかし、実情は自宅での死亡率は8人に一人だ。

自宅で死ねない現実。

日本人の死に場所はこの60年あまりで大きく様変わりした。

1950年当初、病院での死亡率は1割足らずだった。

60年前、8割以上が自宅で亡くなっていたということは

それゆえに死が生活の一部にあったということだ。

いつから「死」が生活の中から切り離されてしまったのだろう。

「死」を見つめる機会が無くなって、「生」の意味もわからなくなったような気がする。

命の重さは「死に行く人」に寄り添うことで初めて実感出来ると思う。

死に様をちゃんと見つめる。

「看取り」の場でしか実感できない命の尊さを知るべきだと思う。

私が「看取り」をテーマにした映画を撮ろう思ったのは

自宅で主人を看取った経験を伝えたかったこともあるが、

看取り士・柴田久美子さんとの出会いがきっかけでもある。

柴田さんの書籍の数々、講演会の内容、これまで何十人もの命を抱いて看取って来られた

その看取りの活動内容、生き様、死生観、本人の生い立ち・・・・

それらに心動かされたのだ。

これから日本は後期高齢化社会を迎え、4人の一人は高齢者となる。

47万人の死に場所が亡くなると言われる2025年問題。

病院は病を治す所であって、死ぬ所ではないとからと受け入れて貰えない。

介護施設は職員もベッド数も足りないから入所困難。

自宅はつきっきりで面倒を見れる人がいない。

本来は住み慣れた一番落ち着く場所で、気心知れた人たちに囲まれ

痛みや苦しみ、不安や恐怖のない、安らかで穏やかな最期を迎えられるのが自然だろう。

無機質な病院は只でさえ違和感がある。

管だらけで薬漬で、自由が制限された最期が望ましいとは言えない。

看取り士・柴田久美子さんは自宅で平穏死を叶える為の取り組みを行っている。

2025年問題の47万人という数字を帰ることはできなくても、47万人の死生観を確立することは出来るのではないか。

何故、人は死ぬように定められているのか

死ぬ時、身体機能が止まった後、その人のそれまでの感情、心、思考はどうなるのか、

魂があるのなら、それは死後どこへ行くのか、

そういった疑問を抱きながら、それを曖昧にしながらも

日々、確実に終わりの日に近づきながら生きていく。

例外なく訪れる「死」を  “縁起でもない”と遠ざけていても、

遅かれ早かれ、この肉体は手放さなければならなくなる。

死を恐れるということは、人生そのものを恐れるということではなかろうか。

看取る側、看取られる側、

両者にとって「看取り」の場面を考えることは決してマイナスではないと思う。

この映画が「死」と「生」を考える良き機会となりますよう。